エブリマ・ダルボエ

選手紹介
名前エブリマ・ダルボエ(Ebrima Darboe)
生年月日2001年6月6日
国籍/出身ガンビアバコテ)
身長178cm
ポジションDMF/CMF
所属ASローマ

※エブリマ・ダルボーとも表記される

難民生活の果てに希望の光を見つけ出したガンビアの新星

プレー動画          

経歴             

■2001-2015年(幼年期~難民時代)

西アフリカ・セネガルに取り囲まれた異質な形をした国、ガンビア。1994年にヤヒヤ・ジャメ大尉が軍事政権を敷いて以降、2016年までの約22年間に渡る独裁国家として残された傷は深く、国民の大半が食糧難の状況に追い込まれるなど国家としての安定は見込めるものではなかった。今回の主人公であるエブリマ・ダルボエはガンビア国内で最も栄えたセレクンダのバコテにて生まれており、父ジャンバ・ダルボエと母ジャイナバ・エンジの息子として5人兄弟の賑やかな家庭にて育っている。

国の状況と同様に安定した環境ではなかったダルボエ家は、母ジャナイバが地元では「ナーン・ムボウル」と呼ばれるデザートを販売しており、息子をサッカー選手に育てるという選択肢は全く考えていなかったという。エブリマが日本円で約2000円程度のサッカーシューズを買いたいとせがんだ際も相手にしておらず、叔母のサリー・エンジはあまりにもエブリマが粘るため精神的に参っているのだと揶揄するほどであった。それでも彼の夢を家族のなかで唯一応援していたのが父ジャンバであり、若くしてこの世を去るまでサッカーグッズを与え続けるなど彼の精神的な支柱となっている。

サッカー選手としてキャリアを始めたのは、2009年にバコテ・ユナイテッドとして合併されるジントス・アカデミーであり、バコテ・ユナイテッド時代に彼を指導していたアブドゥ・トゥーレイは「当時は攻撃的なミッドフィールダーとして人々を楽しませていた」と回想する。そんな幸せな時間は長くは続かず、父ジャンバが12歳の頃に亡くなってからは父の弟であるケッバに預けられ、14歳となったエブリマは困窮した生活からの脱却と愛する家族の未来を繋ぐために単身でガンビアから離れることを決断。2人の友人とイタリアへの入国を目指し、長時間のバス旅を経てたどり着いたのは北アフリカのリビアであるが、国際問題としても重要なテーマとなるほど無法国家として犯罪が蔓延っていたリビアでは半年間に渡る難民生活を強いられることとなっていた。

■2015-2017年(ヤング・リエーティ)

リビアとは地中海を挟んだ先にあるイタリアに向けた難民ボートに乗ることができたが、ニュースでも目にするような沈没の危険性・強制送還の可能性など不安要素は挙げればきりが無いような道中ながら、どうにかイタリア・シチリア島にたどり着くことに成功。イタリアの公的な難民保護システム(SPRAR)によって保護されると、身元保証人がいない未成年の彼はシチリア島東部のカターニャにて最初の生活が始まっている。その後、彼の身元を引き受けることが決まったソーシャルワーカーの家族が住むラツィオ州のリエーティに移り、就業のためにイタリア語を学び始めていた。

劣悪な環境で生活をしていた彼にとっては五つ星ホテルのようなリエーティでの生活を手にすると、2016年10月に「仲間と一緒にプレーしたい」というシンプルな要望を聞き入れてくれたヤング・リエーティと呼ばれるアマチュアクラブに加入。コーチであるフランチェスコ・スポグナルディが才能に気づくのには時間はかかっておらず、最初は自分で全てを解決するような個人技でのプレーが目立っていたエブリマに、チームワークという視点を与えてからは多くの試合に出場させていたという。また、当時は6ft(約180cm)の身長に対して体重がわずか50kgという体格を改善するために、クラブのアスレティックトレーナーであるアンドレア・チャンパリアによってフィジカルトレーニングも実施されていた。また、ヤング・リエーティは彼の勉強とトレーニングを両立できる環境を社会振興システムとの協力によって実現しており、彼は多くの人々の支援によって才能を伸ばし続けている。

試合を重ねるごとに注目を集めるようになると、2017年5月にヤング・リエーティが主催した試合を偶然目にしていたミリアム・ペルッツィ(女性スカウトでジュリオ・ペルッツィの娘)によってアプローチを受け、トライアルに参加してほしいとの願いにてASローマの練習場であるトリゴリアに招待されていた。そこでのパフォーマンスはジャッロロッシ(ASローマの愛称)の期待を裏切ることなく、同年8月にASローマへの移籍が決定している。

■2017-2021年(ASローマ)

ローマでは加入から1年半は難民という事情もあり、公式戦でプレーすることはできずトリゴリアでの練習を続ける日々が続いており、その間は彼に中学卒業資格を取得させ高校に入学させるといった勉学の部分のサポートを行っていた。2019年1月のコッパ・イタリア・プリマヴェーラ(U19カップ)のアタランタ戦にて念願のプリマヴェーラ(U19)でのデビューを飾ると、2018/19シーズンのローマ・プリマヴェーラでは14試合に出場し2得点を記録。18歳の誕生日を迎えた2019年6月には最初のプロ契約を締結するための審査が行われ、彼をスカウトしたミリアム・ペルッツィの家族が認可されたことでプロサッカー選手としてのキャリアが始まっている(ジュリオ・ペルッツィはエブリマを養子に迎い入れることも近づいているそうだ)。

この契約によって年間8万€を稼げるようになった彼はその大半をガンビアに残る母親に送り、母国ガンビアを離れる際に決意した思いを実現させることに成功するだけでなく、2019/20シーズンはアルベルト・デ・ロッシが率いるASローマのプリマヴェーラでも重要なポジションを確立するなど順調な生活を送っている。2021年5月2日にはトップチームに負傷離脱者が相次いでいたことで、サンプドリア戦の後半37分にゴンサロ・ビジャールとの交代でセリエAとトップチームでのデビューを飾り、4日後のUEFAヨーロッパリーグ マンチェスター・ユナイテッド戦ではクリス・スモーリングが負傷したことにより前半30分に急遽出場。指揮官のパウロ・フォンセカに「落ち着けば大丈夫だ」と背中を押されると、1stレグの大敗を払拭する3-2の勝利に貢献し、そのままシーズン終盤のリーグ戦ではスタメン起用に応えている。

代表歴            

プロデビュー前である2019年1月にはガンビアサッカー連盟(GFF)の理事長であるラミン・カバ・バホと指揮官のトム・セイントフィートが彼に計画を伝えるためにローマに訪問しており、同年3月には招集されるが怪我の影響で断念。そこから時間が経った2020年10月にガンビアのフル代表に選出されており、出場はしていないが、今後の目標として母国ガンビアのユニフォームを着用し、アフリカ・ネーションズカップのタイトルを得ることだと語っている。

移籍の噂           

ASローマとは最初のプロ契約時に2023年6月末までの契約を締結しており、トップチームに負傷離脱者が続出したことによる起用であるが評価を得ている状況だ。来季からはジョゼ・モウリーニョが新指揮官として就任することが決定しているため、起用法や新たな補強によっては彼の出場機会が保証されない可能性もあるだろう。まずはモウリーニョからの信頼を勝ち取ることが目標だ。

プレースタイル        

イタリアに渡ってきた際は50kgだった体重も生活の安定化とフィジカルトレーニングによって70kgまでに成長しており、トップチームでも渡り合えるようになった彼の本職はディフェンシブハーフまたは、中盤をダイヤモンド型となった際のインサイドハーフとなっている。若いながらも優れた戦術理解度によって自分の役割を理解しており、ショートパスとロングパスを織り交ぜた組み立てやピッチでのコーチング、相手に渡ったボールの回収など広い視野と状況判断能力によって知性を感じさせるだろう。インサイドハーフとしては隙あらばゴール前の深い位置まで上がり、得点を演出するだけでなく自身もフィニッシャーとして得点を奪う姿も魅力的だ。

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